【林忠彦賞】の林忠彦が使用したカメラや作品・作風からプロフィールまで知り尽くす

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林忠彦サムネ

「林忠彦賞」という林忠彦さんの名のついた賞を耳にすることがありますが、お恥ずかしながら今までどんな賞で、林忠彦さんがどんな方なのか詳しくは知りませんでした。

せっかくカメラで色んなものを撮っているのに「林忠彦賞」のこと、そして林忠彦さん自身のことを知らないのは勿体無いことだと思います。

wikiで調べても賞のことも林忠彦さんのこともザッとしか記されていません。

賞の冠になるほどの方です。

その人生が魅力的で惹かれないわけがありません。

そんな林忠彦さんの賞については勿論、どんなカメラを使用していたのか?どんな人生を歩んで来られたのか?詳しくリサーチしてみましたので、きっと今の時代とは違う感性やカメラへの想いなどが垣間見えるかと思います。

昭和を代表するカメラマン 林忠彦とは

林忠彦2

林 忠彦(はやし ただひこ) 1918年3月5日ー1990年1218年 享年72歳 山口県出身

徳山商業学校を卒ー中山正一写真館へ修行(大阪)ーオリエンタル写真学校卒ー東京光芸社入社ー中国にて「華北弘報写真協会」設立ー北京で敗戦後上京し写真家集団「銀龍社」結成ー日本写真家協会の創立に参加ー日本写真家協会副会長ー日本写真協会理事就任ー全日本写真連盟理事就任

1972年 二科展出品作「織田広喜」で総理大臣賞受賞

1983年 紫綬褒章を受章

1988年 勲四等旭日小綬章受章 日本写真協会功労賞受賞 

1989年 徳山市市民文化栄誉賞受賞

林忠彦さんの生い立ち

林忠彦さんは山口県出身で林写真館の長男の生まれ。元からカメラとは生まれた時から近い存在だったのでしょう。

1918年生まれのこの時代に家が写真館ということは、かなり裕福な家庭であったのではないかと思います。

そして徳山商業学校を卒業後は親の進めで大阪の「中山正一写真館」に修行にいっています。

その翌年に肺結核のため帰省し入院・退院のあとアマチュア写真クラブ「猫之目会」に入会して「林城民」の名で活動されています。

肺結核って昔はフジの病のような大病扱いだったように思うのですが、1年ほどで退院されていることからそうでもなかったのでしょうか?

どちらにせよ、後世に名を残す林忠彦さんが何事もなく退院できたのは、その後の天命があったからかもしれません。

1938年に上京しオリエンタル写真学校に入学し同年に卒業して帰郷するも、放蕩ぶりがあまりにも酷くて再度上京して東京光芸社に入社してプロカメラマンに。

歴史に名を残す人ってすごい大義があって、それに突き進んでいった先に偉業を成し遂げている方って印象が強く、林忠彦さんも後にそうなっていくのですが、初めからそういった人格の方ではなかったのですね(笑)

1941年に日本報道写真協会の会員なり、1942年中国に渡り華北弘報写真協会」を設立して日本の宣伝写真を撮影されていましたが、1946年に北京で敗戦を迎えてからは郷里徳山へ復員し、その後すぐに上京して撮影活動を再開されます。

そしてここから、林忠彦さんを有名に足らしめる出会いと作品が世に広がっていきます。

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太宰治・坂口安吾との出会い

戦後間もない東京で借り物のカメラで復興を目指すたくましく生きる人々を撮影していた林忠彦さん。

そんな中で作家の織田作之助を追って銀座のバー「ルパン」を訪れた際に、太宰治や坂口安吾

といった今もなお語り継がれる文豪との出会いをされています。

太宰治を象徴するポートレート

太宰治

この写真は見たことがある人も多いのではないでしょうか。

先ほどの銀座のバー「ルパン」で「おい、俺も撮れよ。織田作(織田作之助)ばっかり撮ってないで、俺も撮れよ。」と太宰治からの要望に、1個だけ残っていたフラッシュバルブを使い、狭い店内で広角レンズもなかったため、トイレのドアを開けて便器にまたがった状態で撮影されたこの一枚は、数年後に太宰治が死去したこともあり、太宰治を象徴した写真として注目を浴びます。

太宰治と坂口安吾

この写真はトリミングされたもので実際にはもっと広く撮影されており、坂口安吾の背中も含めて撮影されています。

ちなみに「フラッシュバルブ」って何なの?って気になったので調べてみると

フラッシュバルブ

このような今で言う「ストロボ」のようです。

バーのような暗い店内であんなにもはっきりとした写真を撮るにはフラッシュは必須ですが、当時はこんな機材があったのですね。

この「フラッシュバルブ」もあったおかげで後世に語り継がれる太宰治の一枚が撮影できたのですから、「ストロボ」などの光を操る機材は今も昔もなくてはならないものでしょう。

破天荒な坂口安吾が垣間見えるポートレート

坂口安吾

もうこの一枚を見ただけで坂口安吾の「破天荒で細かいことは気にしない豪快な性格」が如実に伺えます。

いやもう自堕落すぎるでしょ!と。

こういったその人物の内面までのぞかせる写真が人々を引きつけていったのでしょう。

そういった作品の数々はこの時代に発行された大衆娯楽雑誌「カストリ雑誌」にて発表され、多くの人達から人気を博し人気写真家となっていきました。

その後も精力的に活動を続け、被写体は人物から風景に写っていきますが、その中には人物を写さずとも人の影を匂わせる独自の世界観で表現されていきます。

晩年の1990年に個展「林忠彦の世界」を開催するも、オープニングセレミニーで倒れ、そのまま入院、同年の12月18日に帰らぬ人となりました。

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昭和が生んだ怪物 林忠彦の作風

林忠彦さんの作品は、日本の風俗や風景などをありのままに写した、まさにリアリティーを淡々と写した印象があります。

そこには凝った演出や、より良く見せようという気負いは感じられず、そこにある風景をそこにいる人物を自然体で撮影している作品が多いのです。

作風全体としては強い意志を感じさせる作風で、カメラを見つめる人物の眼差しはレンズを通して何かを強く語りかけるようなイメージです。

林忠彦さんは自身が撮影する人物写真を「決闘写真」と呼んでいました。

林忠彦さんが撮りたかったのは、まさに「生きる人」

人物も風景も全てを生きるエネルギーとして捉えた林忠彦さんの気迫が、写真を通じて伝わるようです。

林忠彦さんが「昭和が生んだ怪物」と称されたのは、まさに貪欲にエネルギーを求め続けたからではないでしょうか。

人物写真が有名な林忠彦さんですが、晩年に出版された林忠彦さんの写真集「東海道」には、林忠彦さんが見つめた風景がとても静かにとても激しく詰め込まれています。

林忠彦さんは江戸の面影を現代の眼で記録したかったという想いと共に、30年もの長い間、暖めていたテーマでした。

右半身麻痺という後遺症に悩みながら、それでも撮り続けた、この「東海道」は100箇所以上で撮影が行われたものです。

息子さんで、ご自身もカメラマンである義勝さんは、自分の仕事を後回しにしてまでも父である忠彦さんと共に撮影を続けたのです。

この作品には親子が過ごした静かな時も詰まっているのです。

そして、この「東海道」が出版されたのは、林忠彦さんがガンの宣告を受けた5年後の1990年。

出版された3ヶ月後。
林忠彦さんは、その写真家としての長い人生を終えたのです。

林忠彦さんが使っていたカメラ

林忠彦さんは戦後の頃は借り物のカメラで撮影をしていました。

そして時代が流れ林忠彦さんの手には愛用のカメラが握られています。

CONTAX コンタックス RXⅡ

コンタックスRXⅡ

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そのカメラは「Contax RXⅡ」です。
「Contax RXⅡ」はコンタックスRXの部品が払底された為に製造された、いわゆるマイナーチェンジ機種です。

手に持った時のソフトなホールド感や、シャッターは指を軽く乗せるだけで切る事が出来るという、まさにカメラマンにとっては使いやすい機種です。

この「Contax RXⅡ」だからこそ、あのようにほんの一瞬にしか見られない表情の変化や、風景の微妙な変化を撮る事が出来るのです。

林忠彦さんは「Contax RXⅡ」のレンズを通して、人物を、そして日本の美しい風景を撮り続けたのです。

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三代写真賞 林忠彦賞とは

林忠彦賞

「林忠彦賞」は戦後の写真界に大きな衝撃と、そして大きな足跡を残したその業績を記念して、1991年に徳山市文化振興財団(現・周南市文化振興財団)が創設しました。

林忠彦さんは写真家としてだけではなく、アマチュア写真家の資質向上の為にとても尽力されていました。

その活動は終生変わる事はなかったのです。

その為この「林忠彦賞」はアマチュア写真家の振興を目的とした賞です。

アマチュア写真家の写真展・写真集などが対象として選考されていました。ですが、第18回からは、プロのカメラマンの作品も選考の対象とされています。

この「林忠彦賞」を受賞すると、東京と周南市にある周南市美術博物館で写真展の機械が与えられ、受賞作品は周南市美術博物館で永久に保存されるのです。

まどみちお

まどみちお

岸田劉生

岸田劉生

宮崎進

宮崎進

周南市美術館には林忠彦さんの写真を中心として、他にもまどみちおさん、岸田劉生さん、宮崎進さんなど多彩な芸術家達の作品を展示しています。

そして、その名だたる芸術家の作品と同じように受賞した作品は展示され、多くの人の目に触れる機械を得る事が出来ます。

選考委員が厳しく選んだ作品はその作風も実力も確かなものです。

西域-シルクロード-

「西域-シルクロード-」

Otari-Pristine-Peaks-山霊の庭

「Otari-Pristine-Peaks-山霊の庭」
受賞した作品は、第一回に受賞した写真集「西域-シルクロード-」(後藤正治さん)を始め、第28回に受賞した写真集である「Otari-Pristine-Peaks-山霊の庭」(野村恵子さん)が受賞するまで実に多くの写真家が受賞しているのです。

そして、この賞をキッカケとして写真展が開かれその知名度を上げていきました。

この賞は、木村伊兵衛写真賞・土門拳賞と並ぶ三大写真賞の一つとして、多くの写真家志望の人にとっての憧れの賞となっています。

林忠彦さんは、戦後の日本。

あらゆる物に不自由な時代から高度成長期、バブル期と様々な日本の風景を撮り続けました。

移り変わる人や物の中で林忠彦さんは変わらずに、自らの写真表現の可能性を探求し続けました。

その林忠彦さんの飽くなき探求心を受け継ぐ多くのカメラマンが、この賞を受賞し大きく羽ばたいています。

時代という大きな波の中で、ただひたすらにシャッターを切り続けていた林忠彦さんの情熱、そして強い信念は若いカメラマンに、これからも受け継がれていく事でしょう。

そして、プロだけではなくアマチュアのカメラマンにも光が当たり、多くのチャンスをつかむ事こそが林忠彦さんが真に願っていた事ではないかと思います。

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